堺環濠都市について

文久改正堺大絵図

上に掲げた絵図は、文久三年(1863年)つまり、江戸時代末期の堺の町を表したものです。1863年といえば、明治時代が始まる5年前です。
この地図を見てもわかるように、四方を濠(ほり)で囲まれた中に、碁盤目状の街路が整然と区画されています。このような、町の形は、江戸時代の初め、年号でいえば元和(げんな)の頃にできあがりました。

自由都市、自治都市として名高い中世の堺の町(中世の環濠都市)は、江戸時代初めの1615年(慶長20年・元和元年)、大坂夏の陣の際に、豊臣方の焼き討ちにより灰燼に帰しました。そして、その後、堺は徳川幕府の直轄領となり、新たに三方に濠(いわゆる「土居川」)が掘られ、碁盤目状の街路等も整備されて、新しい近世の環濠都市に生まれ変わりました。

堺大絵図

この江戸時代に誕生した新しい環濠都市の碁盤目状の街路や短冊形の地割は、当時の年号にちなんで「元和の町割」と呼ばれています。ここに示した国立歴史民俗博物館所蔵「元禄二年(1689年)大絵図」は、少し時代は下りますが、当時の姿を今に伝えるものです。当時、大和川は北流して淀川にそそいでおり、堺の町の西側は直接海に面していて、濠はありません。その後(1704年)、付け替えられた大和川のもたらす大量の土砂が堺の港の形を変えていきました。
この絵図は、全9枚の部分図をつなぎ合わせると、全体として30畳ほどの巨大な絵図となります。整然とした短冊形の屋敷地割ごとに、所有者の名前、間口、奥行が明記された詳細なもので、町奉行などによる都市管理運営の基本図と考えられています。

このように、現在のいわゆる環濠都市堺の形は、江戸時代につくられたものですが、では、中世の環濠都市堺はどのような形をしていたのでしょう。

堺は古くから水陸交通の要衝であり、中世には室町時代における遣明船貿易をはじめ、その後の南蛮貿易等によって国際貿易都市として栄えました。当時、日本を訪れたイエズス会(キリスト教)の宣教師の記録によると、町は北・東・南の三方に濠をめぐらせた環濠都市であり、各町の端に木戸があって夜は閉ざされ、一旦ことがあると濠を深くして櫓(やぐら)を上げるという防衛体制や、会合衆(かいごうしゅう)と呼ばれた有力商人による町の運営体制などから、ヨーロッパの中世都市にも匹敵する自治都市、自由都市であったとされています。

しかし、当時の町の形を伝える絵図などは全く残されていません。ただ、近年の発掘調査により、現在の町なみの地下に眠っている中世の環濠都市の様子は、かなり明らかになってきました。中世の遺構や遺物は、現在の地表面より約1m〜4m下で発見されています。町の規模についても、近世の環濠都市よりも、一回り小さいものであることが明らかになりました。また、街路の位置や方向も近世のそれとは異なっていることもわかってきました。

ちなみに、四方を環濠(および環濠跡)で囲まれた現代の環濠都市は、中世・近世から現代までの遺構・遺物を含む「堺環濠都市遺跡」として周知され、現在も貴重な歴史の証人となっています。

江戸時代初頭に成立し、近代へと続いてきた近世の環濠都市も、1945年(昭和20年)、第2次世界大戦時の堺大空襲のため、大部分が焼失しました。しかしながら、今回の町なみ再生事業の対象地域である北部地区は、幸運にも戦火を免れたため、現在も江戸時代から戦前に建てられた町家などの貴重な歴史的建造物が多く残されています。

また、その他の環濠内の地域についても、道路拡幅、区画整理、北・東の環濠の埋立て等の改変はあるものの、基本的には江戸時代の「元和の町割」が、現在の堺のまちの骨格を形づくっています。つまり、現代の堺環濠都市は、江戸時代初頭に中世の環濠都市の遺構の上に形成された、近世の環濠都市の姿をそのまま受け継いでいるといえるでしょう。

<主要参考文献>
堺市教育委員会『堺環濠都市遺跡』堺の遺跡ガイドシリーズ1(2003年)
玉井 哲雄「元禄二年 堺大絵図」『歴博』No.160(2010年)

Back to Top